第二十八 菩提薩四攝法

一者、布施。二者、愛語。三者、利行。四者、同事。
その布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり。たとひ四州を統領すれども、正道の化をほどこすには、かならず不貪なるのみなり。たとへば、すつるたからをしらぬ人にほどこさんがごとし。遠山のはなを如來に供し、前生のたからを衆生にほどこさん、法におきても物におきても、面面に布施に相應する功を本具せり。我物にあらざれども、布施をさへざる道理あり。そのもののかろきをきらはず、その功の實なるべきなり。道を道にまかするとき、得道す。得道のときは、道かならず道にまかせられゆくなり。財のたからにまかせらるるとき、財かならず布施となるなり。自を自にほどこし、他を他にほどこすなり。この布施の因力、とほく天上人間までも通じ、證果の賢聖までも通ずるなり。そのゆゑは、布施の能受となりて、すでにをむすぶがゆゑに。
ほとけののたまはく、布施する人の衆會のなかにきたるときは、まづその人を人のぞみみる。
しるべし、ひそかにそのこころの通ずるなりと。しかあればすなはち、一句一偈の法をも布施すべし、此生他生の善種となる。一錢一草の財をも布施すべし、此世他世の善根をきざす。法もたからなるべし、財も法なるべし。願樂によるべきなり。
まことにすなはち、ひげをほどこしては、もののこころをととのへ、いさごを供しては王位をうるなり。ただかれが報謝をむさぼらず、みづからがちからをわかつなり。
舟をおき、橋をわたすも、布施の檀度なり。もしよく布施を學するときは、受身身ともにこれ布施なり、治生産業もとより布施にあらざることなし。はなを風にまかせ、鳥をときにまかするも、布施の功業なるべし。阿育大王の半菴羅果、よく數百の衆を供養せし、廣大の供養なりと證明する道理、よくよく能受の人も學すべし。身力をはげますのみにあらず、便宜をすごさざるべし。
まことに、みづからに布施の功の本具なるゆゑに、いまのみづからはえたるなり。
ほとけののたまはく、於其自身、尚可受用、何況能與父母妻子(其の自身に於ても、尚ほ受用すべし、何に況んや能く父母妻子に與へんをや)。
しかあればしりぬ、みづからもちゐるも布施の一分なり、父母妻子にあたふるも布施なるべし。もしよく布施に一塵をせんときは、みづからが所作なりといふとも、しづかに隨喜すべきなり。佛のひとつの功をすでに正傳しつくれるがゆゑに、菩薩の一法をはじめて修行するがゆゑに。
轉じがたきは衆生のこころなり。一財をきざして衆生の心地を轉じはじむるより、得道にいたるまでも、轉ぜんとおもふなり。そのはじめ、かならず布施をもてすべきなり。かるがゆゑに、六波羅蜜のはじめに檀波羅蜜あるなり。心の大小ははかるべからず、物の大小もはかるべからず。されども、心轉物のときあり、物轉心の布施あるなり。

愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おほよそ暴惡の言語なきなり。世俗には安否をとふ禮儀あり、佛道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。慈念衆生、猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。あるはほむべし、なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし、世世生生にも不退轉ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。
むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを學すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず。

利行といふは、貴賤の衆生におきて、利の善巧をめぐらすなり。たとへば、遠近の前途をまぼりて、利他の方便をいとなむ。窮龜をあはれみ、病雀をやしなふし、窮龜をみ、病雀をみしとき、かれが報謝をもとめず、ただひとへに利行にもよほさるるなり。
愚人おもはくは、利他をさきとせば、自が利、はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。むかしの人、ひとたび沐浴するに、みたびかみをゆひ、ひとたび食するに、みたびはきいだせしは、ひとへに他を利せしこころなり。ひとのくにの民なれば、をしへざらんとにはあらざりき。
しかあれば、怨親ひとしく利すべし、自他おなじく利するなり。もしこのこころをうれば、草木風水にも利行のおのれづから不退不轉なる道理、まさに利行せらるるなり。ひとへに愚をすくはんといとなむべし。

同事といふは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。たとへば、人間の如來は人間に同ぜるがごとし。人界に同ずるをもてしりぬ、同餘界なるべし。同事をしるとき、自他一如なり。
かの琴詩酒は、人をともとし、天をともとし、をともとす。人は琴詩酒をともとす、琴詩酒は琴詩酒をともとし、人は人をともとし、天は天をともとし、をともとすることわりあり。これ同事の學なり。
たとへば、事といふは、儀なり、威なり、態なり。他をして自に同ぜしめてのちに、自をして他に同ぜしむる道理あるべし。自他はときにしたがふて無窮なり。
管子云、海不辭水、故能成甚大。山不辭土、故能成其高。明主不厭人、故能成其衆(管子云く、海は水を辭せず、故に能く甚大きなることを成す。山は土を辭せず、故に能くその高きことを成す。明主は人を厭はず、故に能く其の衆を成す)。
しるべし、海の水を辭せざるは同事なり。さらにしるべし、水の海を辭せざるも具足せるなり。このゆゑに、よく水あつまりて海となり、土かさなりて山となるなり。ひそかにしりぬ、海は海を辭せざるがゆゑに、おほきなることをなす。山は山を辭せざるがゆゑに、たかきことをなすなり。明主は人をいとはざるがゆゑに、その衆をなす。衆とは國なり。いはゆる明主は、帝王をいふなるべし。帝王は人をいとはざるなり。人をいとはずといへども、賞罰なきにあらず。賞罰ありといへども、人をいとふことなし。
むかしすなほなりしときは、國に賞罰なかりき。かのときの賞罰は、いまとひとしからざればなり。いまも、賞をまたずして道をもとむる人もあるべきなり、愚夫の思慮のおよぶべきにあらず。明主はあきらかなるがゆゑに人をいとはず。人かならず國をなし、明主をもとむるこころあれども、明主の明主たる道理をことごとくしる事まれなるゆゑに、明主にいとはれずとのみよろこぶといへども、わが明主をいとはざるとしらず。このゆゑに、明主にも暗人にも、同事の道理あるがゆゑに、同事は薩の行願なり。ただまさに、やはらかなる容顔をもて一切にむかふべし。
この四攝、おのおの四攝を具足せるがゆゑに、十六攝なるべし。

正法眼藏菩提薩四攝法第二十八

仁治癸卯端午日記録 入宋傳法沙門道元