第七十
空
這裏是什麼處在のゆゑに、道現成をして佛
ならしむ。佛
の道現成、おのれづから嫡嫡するゆゑに、皮肉骨髓の渾身せる、掛
空なり。
空は、二十空等の群にあらず。おほよそ、空ただ二十空のみならんや、八萬四千空あり、およびそこばくあるべし。
撫州石鞏慧藏禪師、問西堂智藏禪師、汝還解捉得
空麼(撫州石鞏慧藏禪師、西堂智藏禪師に問ふ、汝還た
空を捉得せんことを解する麼)。
西堂曰、解捉得(捉得せんことを解す)。
師曰、
作麼生捉(
作麼生か捉する)。
西堂以手撮
空(西堂、手を以て
空を撮す)。
師曰、
不解捉
空(
空を捉せんことを解せず)。
西堂曰、師兄作麼生捉(師兄作麼生か捉する)。
師把西堂鼻孔
(師、西堂が鼻孔を把りて
く)。
西堂作忍痛聲曰、太殺人、
人鼻孔、直得
去(西堂、忍痛の聲を作して曰く、太殺人、人の鼻孔を
いて、直得
去す)。
師曰、直得恁地捉始得(直に恁地に捉することを得て始得ならん)。
石鞏道の汝還解捉得
空麼。
なんぢまた通身是手眼なりやと問著するなり。
西堂道の解捉得。
空一塊觸而染汚なり。染汚よりこのかた、
空落地しきたれり。
石鞏道の
作麼生捉。
換作如如、早是變了也(換んで如如と作すも、早く是れ變じ了りぬ)なり。しかもかくのごとくなりといへども、隨變而如去也(變るに隨ひて如にして去る也)なり。
西堂以手撮
空。
只會騎虎頭、未會把虎尾(ただ虎頭に騎るを會して、未だ虎尾を把るを會せず)なり。
石鞏道、
不解捉
空。
ただ不解捉のみにあらず、
空也未夢見在なり。しかもかくのごとくなりといへども、年代深遠、不欲爲伊擧似(伊が爲に擧似せんと欲はず)なり。
西堂道、師兄作麼生。
和尚也道取一半、莫全靠某甲(和尚も也た一半を道取すべし、全く某甲に靠ること莫かれ)なり。
石鞏把西堂鼻孔
。
しばらく參學すべし、西堂の鼻孔に石鞏藏身せり。あるいは鼻孔
石鞏の道現成あり。しかもかくのごとくなりといへども、
空一團、
著築著なり。
西堂作忍痛聲曰、太殺人、
人鼻孔、直得
去。
從來は人にあふとおもへども、たちまちに自己にあふことをえたり。しかあれども、染汚自己
不得(自己を染汚することは
ち得ず)なり、修己すべし。
石鞏道、直得恁地捉始得。
恁地捉始得はなきにあらず、ただし石鞏と石鞏と、共出一隻手の捉得なし。
空と
空と、共出一隻手の捉得あらざるがゆゑに、いまだみづからの費力をからず。
おほよそ盡界には、容
空の間隙なしといへども、この一段の因
、ひさしく
空の霹靂をなせり。石鞏、西堂よりのち、五家の宗匠と稱ずる參學おほしといへども、
空を見聞測度せるまれなり。石鞏、西堂より前後に、弄
空を擬するともがら面面なれども、著手せるすくなし。石鞏は
空をとれり、西堂は
空を
見せず。大佛まさに石鞏に爲道すべし、いはゆるそのかみ西堂の鼻孔をとる、捉
空なるべくは、みづから石鞏の鼻孔をとるべし。指頭をもて指頭をとることを會取すべし。しかあれども、石鞏いささか捉
空の威儀をしれり。たとひ捉
空の好手なりとも、
空の内外を參學すべし。
空の殺活を參學すべし。
空の輕重をしるべし。佛佛
の功夫辨道、發心修證、道取問取、すなはち捉
空なると保任すべし。
先師天童古佛曰、渾身似口掛
空(渾身口に似て
空に掛る)。
あきらかにしりぬ、
空の渾身は
空にかかれり。
洪州西山亮座主、因參馬
。
問、講什麼經(洪州西山の亮座主、因みに馬
に參ず。
問ふ、什麼經をか講ずる)。
師曰、心經。
曰、將什麼講(什麼を將てか講ずる)。
師曰、將心講(心を將て講ず)。
曰、心如工伎兒、意如和伎者。六識爲伴侶、爭解講得經(心は工伎兒の如く、意は和伎者の如し。六識伴侶たり、爭でか經を講得することを解せん)。
師曰、心
講不得、莫是
空講得麼(心
に講不得ならば、是れ
空講得すること莫き麼)。
曰、却是
空講得(却つて是れ
空講得せん)。
師拂袖而退(師、拂袖して退く)。
召云、座主。
師廻首(師、廻首す)。
曰、從生至老、只是這箇(生より老に至るまで、只是這箇)。
師因而有省。遂隱西山、更無消息(師、因みに省有り。遂に西山に隱れて更に消息無し)。
しかあればすなはち、佛
はともに講經者なり。講經はかならず
空なり。
空にあらざれば一經をも講ずることをえざるなり。心經を講ずるにも、身經を講ずるにも、ともに
空をもて講ずるなり。
空をもて思量を現成し、不思量を現成せり。有師智をなし、無師智をなす。生知をなし、學而知をなす、ともに
空なり。作佛作
、おなじく
空なるべし。
第二十一
婆修盤頭尊者道、
心同
空界、
示等
空法。
證得
空時、
無是無非法。
(心は
空界に同じ、等
空の法を示す。
空を證得する時、是も無く非法も無し。)
いま壁面人と人面壁と、相逢相見する牆壁心、枯木心、これはこれ
空界なり。應以此身得度者、
現此身、而爲
法、これ示等
空法なり。應以他身得度者、
現他身、而爲
法、これ示等
空法なり。被十二時使、および使得十二時、これ證得
空時なり。石頭大底大、石頭小底小、これ無是無非法なり。
かくのごとくの
空、しばらくこれを正法眼藏涅槃妙心と參究するのみなり。
正法眼藏
空第七十
爾時
元三年乙巳三月六日在越宇大佛寺示衆
弘安二年己卯五月十七日在同國中濱新善光寺書寫之 義雲