第六十三 發菩提心

西國高曰、雪山喩大涅槃(雪山を大涅槃に喩ふ)。
しるべし、たとふべきをたとふ。たとふべきといふは、親曾なるなり、端的なるなり。いはゆる雪山を拈來するは喩雪山なり。大涅槃を拈來する、大涅槃にたとふるなり。

震旦初曰、心心如木石。
いはゆる心は心如なり。盡大地の心なり。このゆゑに自他の心なり。盡大地人および盡十方界の佛および天、龍等の心心は、これ木石なり。このほかさらに心あらざるなり。この木石、おのれづから有、無、空、色等の境界に籠せられず。この木石心をもて發心修證するなり、心木心石なるがゆゑなり。この心木心石のちからをもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。心木心石の風聲を見聞するより、はじめて外道の流類を超越するなり。それよりさきは佛道にあらざるなり。

大證國師曰、牆壁瓦礫、是古佛心。
いまの牆壁瓦礫、いづれのところにかあると參詳看あるべし。是什麼物恁麼現成と問取すべし。古佛心といふは、空王那畔にあらず。粥足足なり、草足水足なり。かくのごとくなるを拈來して、坐佛し作佛するを、發心と稱ず。

おほよそ發菩提心の因、ほかより拈來せず、菩提心を拈來して發心するなり。菩提心を拈來するといふは、一莖草を拈じて造佛し、無根樹を拈じて造經するなり。いさごをもて供佛し、漿をもて供佛するなり。一摶の食を衆生にほどこし、五莖の花を如來にたてまつるなり。他のすすめによりて片善を修し、魔にせられて禮佛する、また發菩提心なり。しかのみにあらず、知家非家、家出家、入山修道、信行法行するなり。造佛造塔するなり。讀經念佛するなり。爲衆法するなり、尋師訪道するなり。跏趺坐するなり、一禮三寶するなり、一稱南無佛するなり。
かくのごとく、八萬法蘊の因、かならず發心なり。あるいは夢中に發心するもの、得道せるあり、あるいは醉中に發心するもの、得道せるあり。あるいは飛花落葉のなかより發心得道するあり、あるいは桃花翠竹のなかより發心得道するあり。あるいは天上にして發心得道するあり、あるいは海中にして發心得道するあり。これみな發菩提心中にしてさらに發菩提心するなり。身心のなかにして發菩提心するなり。佛の身心中にして發菩提心するなり、佛の皮肉骨髓のなかにして發菩提心するなり。
しかあれば、而今の造塔造佛等は、まさしくこれ發菩提心なり。直至成佛の發心なり、さらに中間に破癈すべからず。これを無爲の功とす、これを無作の功とす。これ眞如觀なり、これ法性觀なり。これ佛集三昧なり、これ得佛陀羅尼なり。これ阿耨多羅三藐三菩提心なり、これ阿羅漢果なり、これ佛現成なり。このほかさらに無爲無作等の法なきなり。
しかあるに、小乘愚人いはく、造像起塔は有爲の功業なり。さしおきていとなむべからず。息慮凝心これ無爲なり、無生無作これ眞實なり、法性實相の觀行これ無爲なり。かくのごとくいふを、西天東地の古今の俗とせり。これによりて、重罪逆罪をつくるといへども造像起塔せず、塵勞稠林に染汚すといへども念佛讀經せず。これただ人天の種子を損壞するのみにあらず、如來の佛性を撥無するともがらなり。まことにかなしむべし、佛法の時節にあひながら、佛法の怨敵となりぬ。三寶の山にのぼりながら空手にしてかへり、三寶の海に入りながら空手にしてかへらんことは、たとひ千佛萬の出世にあふとも、得度の期なく、發心の方を失するなり。これ經卷にしたがはず、知識にしたがはざるによりてかくのごとし。おほく外道邪師にしたがふによりてかくのごとし。造塔等は發菩提心にあらずといふ見解、はやくなげすつべし。こころをあらひ、身をあらひ、みみをあらひ、めをあらうて見聞すべからざるなり。まさに佛經にしたがひ、知識にしたがひて、正法に歸し、佛法を修學すべし。
佛法の大道は、一塵のなかに大千の經卷あり、一塵のなかに無量の佛まします。一草一木ともに身心なり。萬法不生なれば一心も不生なり、法實相なれば一塵實相なり。しかあれば、一心は法なり、法は一心なり、全身なり。造塔等もし有爲ならんときは、佛果菩提、眞如佛性もまた有爲なるべし。眞如佛性これ有爲にあらざるゆゑに、造像起塔すなはち有爲にあらず、無爲の發菩提心なり、無爲無漏の功なり。ただまさに、造像起塔等は發菩提心なりと決定信解すべきなり。億劫の行願、これより生長すべし、億億萬劫くつべからざる發心なり。これを見佛聞性といふなり。
しるべし、木石をあつめ泥土をかさね、金銀七寶をあつめて造佛起塔する、すなはち一心をあつめて造塔造像するなり。空空をあつめて作佛するなり、心心を拈じて造佛するなり。塔塔をかさねて造塔するなり、佛佛を現成せしめて造佛するなり。
かるがゆゑに、經にいはく、作是思惟時、十方佛皆現。
しるべし、一思惟の作佛なるときは、十方思惟佛皆現なり。一法の作佛なるときは、法作佛なり。

牟尼佛言、明星出現時、我與大地有、同時成道。
しかあれば、發心修行、菩提涅槃は、同時の發心、修行、菩提、涅槃なるべし。佛道の身心は草木瓦礫なり、風雨水火なり。これをめぐらして佛道ならしむる、すなはち發心なり。空を撮得して造塔造佛すべし。溪水を掬啗して造佛造塔すべし。これ發阿耨多羅三藐三菩提なり。一發菩提心を百千萬發するなり。修證もまたかくのごとし。
しかあるに、發心は一發にしてさらに發心せず、修行は無量なり、證果は一證なりとのみきくは、佛法をきくにあらず、佛法をしれるにあらず、佛法にあふにあらず。千億發の發心は、さだめて一發心の發なり。千億人の發心は、一發心の發なり。一發心は千億の發心なり、修證轉法もまたかくのごとし。草木等にあらずはいかでか身心あらん、身心にあらずはいかでか草木あらん、草木にあらずは草木あらざるがゆゑにかくのごとし。
坐禪辨道これ發菩提心なり。發心は一異にあらず、坐禪は一異にあらず、再三にあらず、處分にあらず。頭頭みなかくのごとく參究すべし。草木七寶をあつめて造塔造佛する始終、それ有爲にして成道すべからずは、三十七品菩提分法も有爲なるべし。三界人天の身心を拈じて修行せん、ともに有爲なるべし、究竟地あるべからず。草木瓦礫と四大五蘊と、おなじくこれ唯心なり、おなじくこれ實相なり。盡十方界、眞如佛性、おなじく法住法位なり。眞如佛性のなかに、いかでか草木等あらん。草木等、いかでか眞如佛性ならざらん。法は有爲にあらず、無爲にあらず、實相なり。實相は如是實相なり、如是は而今の身心なり。この身心をもて發心すべし。水をふみ石をふむをきらふことなかれ。ただ一莖草を拈じて丈六金身を造作し、一微塵を拈じて古佛塔廟を建立する、これ發菩提心なるべし。見佛なり、聞佛なり。見法なり、聞法なり。作佛なり、行佛なり。

牟尼佛言、優婆塞優婆夷、善男子善女人、以妻子肉供養三寶、以自身肉供養三寶。比丘受信施、云何不修(優婆塞優婆夷、善男子善女人、妻子の肉を以て三寶に供養し、自身の肉を以て三寶に供養すべし。の比丘に信施を受く、云何が修せざらん)。
しかあればしりぬ、飮食衣服、臥具醫藥、房田林等を三寶に供養するは、自身および妻子等の身肉皮骨髓を供養したてまつるなり。すでに三寶の功海にいりぬ、すなはち一味なり。すでに一味なるがゆゑに三寶なり。三寶の功すでに自身および妻子の皮肉骨髓に現成する、勤の辨道功夫なり。いま世尊の性相を擧して、佛道の皮肉骨髓を參取すべきなり。いまこの信施は發心なり。受者比丘、いかでか不修ならん。頭正尾正なるべきなり。これによりて、一塵たちまちに發すれば一心したがひて發するなり、一心はじめて發すれば一空わづかに發するなり。おほよそ有覺無覺の發心するとき、はじめて一佛性を種得するなり。四大五蘊をめぐらして誠心に修行すれば得道す、草木牆壁をめぐらして誠心に修行せん、得道すべし。四大五蘊と草木牆壁と同參なるがゆゑなり、同性なるがゆゑなり。同心同命なるがゆゑなり、同身同機なるがゆゑなり。
これによりて、佛の會下、おほく拈草木心の辨道あり。これ發菩提心の樣子なり。五は一時の栽松道者なり、臨濟は黄檗山の栽杉松の功夫あり。洞山には劉氏翁あり、栽松す。かれこれ松栢の操節を拈じて、佛の眼睛を抉出するなり。これ弄活眼睛のちから、開明眼睛なることを見成するなり。造塔造佛等は弄眼睛なり、喫發心なり、使發心なり。
造塔等の眼睛をえざるがごときは、佛の成道あらざるなり。造佛の眼睛をえてのちに、作佛作するなり。造塔等はつひに塵土に化す、眞實の功にあらず、無生の修練は堅牢なり、塵埃に染汚せられずといふは佛語にあらず。塔婆もし塵土に化すといはば、無生もまた塵土に化するなり。無生もし塵土に化せずは、塔婆また塵土に化すべからず。遮裡是甚麼處在、有爲無爲なり。

經云、
菩薩於生死、最初發心時、一向求菩提、堅固不可動(菩薩生死に於て最初に發心せん時、一向に菩提を求む、堅固にして動かすべからず)。
彼一念功、深廣無涯際、如來分別、窮劫不能盡(彼の一念の功、深廣無涯際なり、如來分別してきたまひ、劫を窮むるも盡すこと能はじ)。
あきらかにしるべし、生死を拈來して發心する、これ一向求菩提なり。彼一念は一草一木とおなじかるべし、一生一死なるがゆゑに。しかあれども、その功の深も無涯際なり、廣も無涯際なり。窮劫を言語として如來これを分別すとも、盡期あるべからず。海かれてなほ底のこり、人は死すとも心のこるべきがゆゑに不能盡なり。彼一念の深廣無涯際なるがごとく、一草一木、一石一瓦の深廣も無涯際なり。一草一石もし七尺八尺なれば、彼一念も七尺八尺なり、發心もまた七尺八尺なり。
しかあればすなはち、入於深山、思惟佛道は容易なるべし、造塔造佛は甚難なり。ともに進無怠より成熟すといへども、心を拈來すると、心に拈來せらるると、はるかにことなるべし。かくのごとくの發菩提心、つもりて佛現成するなり。

正法眼藏發菩提心第六十三

爾時元二年甲辰二月十四日在越州吉田縣吉峰舍示衆
弘安二年己卯三月十日在永平寺書寫之 懷弉