第三十五
通
かくのごとくなる
通は、佛家の茶
なり、
佛いまに懈倦せざるなり。これに六
通あり、一
通あり。無
通あり、最上通あり。朝打三千なり、暮打八百なるを爲體とせり。與佛同生せりといへども佛にしられず、與佛同滅すといへども佛をやぶらず。上天に同條なり、下天にも同條なり、修行取證、みな同條なり。同雪山なり、如木石なり。過去の
佛は釋
牟尼佛の弟子なり、袈裟をささげてきたり、塔をささげきたる。このとき釋
牟尼佛いはく、
佛
通不可思議なり。しかあればしりぬ、現在未來も亦復如是なり。
大
禪師は、釋
如來より直下三十七世の
なり、百丈大智の嗣法なり。いまの佛
、おほく十方に出興せる、大
の遠孫にあらざるなし、すなはち大
の遠孫なり。
大
あるとき臥せるに、仰山來參す。大
すなはち轉面向壁臥す。
仰山いはく、慧寂これ和尚の弟子なり、形迹もちゐざれ。
大
おくるいきほひをなす。仰山すなはちいづるに、大
召して寂子とめす。
仰山かへる。
大
いはく、老
ゆめをとかん、きくべし。
仰山かうべをたれて聽勢をなす。
大
いはく、わがために原夢せよ、みん。
仰山一盆の水、一條の手巾をとりてきたる。
大
つひに洗面す。洗面しをはりてわづかに坐するに、香嚴きたる。
大
いはく、われ適來寂子と一上の
通をなす。不同小小なり。
香嚴いはく、智閑下面にありて、了了に得知す。
大
いはく、子、こころみに道取すべし。
香嚴すなはち一椀の茶を點來す。
大
ほめていはく、二子の
通智慧、はるかに
子目連よりもすぐれたり。
佛家の
通をしらんとおもはば、大
の道取を參學すべし。
不同小小のゆゑに、作是學者、名爲佛學、不是學者、不名佛學(是の學を作す者を名づけて佛學と爲し、是の學にあらざれば佛學と名づけず)なるべし。嫡嫡相傳せる
通智慧なり。さらに西天竺國の外道二乘の
通、および論師等の所學を學することなかれ。
いま大
の
通を學するに、無上なりといへども、一上の見聞あり。いはゆる臥次よりこのかた、轉面向壁臥あり、起勢あり、召寂子あり、
箇夢あり、洗面了纔坐あり、仰山又低頭聽あり、盆水來、手巾來あり。
しかあるを、大
いはく、われ適來寂子と一上の
通をなすと。
この
通を學すべし。佛法正傳の
師、かくのごとくいふ。
夢洗面といはざることなかれ、一上の
通なりと決定すべし。すでに不同小小といふ、小乘小量小見におなじかるべからず、十聖三賢等に同ずべきにあらず。かれらみな小
通をならひ、小身量のみをえたり。佛
の大
通におよばず。これ佛
通なり、佛向上
通なり。この
通をならはん人は、魔外にうごかざるべからざるなり。經師論師いまだきかざるところ、きくとも信受しがたきなり。二乘外道經師論師等は小
通をならふ、大
通をならはず。
佛は大
通を住持す、大
通を相傳す。これ佛
通なり。佛
通にあらざれば、盆水來、手巾來せず。轉面向壁臥なし、洗面了纔坐なし。
この大
通のちからにおほはれて、小
通等もあるなり。大
通は小
通を接す、小
通は大
通をしらず。小
通といふは、いはゆる毛呑巨海、芥納須彌なり。また身上出水、身下出火等なり。又五通六通、みな小
通なり。これらのやから、佛
通は夢也未見聞在なり。五通六通を小
通といふことは、五通六通は修證に染汚せられ、際斷を時處にうるなり。在生にありて身後に現ぜず、自己にありて他人にあらず。此土に現ずといへども他土に現ぜず。不現に現ずといへども、現時に現ずることをえず。
この大
通はしかあらず。
佛の
行證、おなじく
通に現成せしむるなり。ただ
佛の邊に現成するのみにあらず、佛向上にも現成するなり。
通佛の化儀、まことに不可思議なるなり。有身よりさきに現ず、現の三際にかかはれぬあり。佛
通にあらざれば、
佛の發心修行菩提涅槃いまだあらざるなり。いまの無盡法界海の常不變なる、みなこれ佛
通なり。毛呑巨海のみにあらず、毛保任巨海なり、毛現巨海なり、毛吐巨海なり、毛使巨海なり。一毛に盡法界を呑却し吐却するとき、ただし一盡法界かくのごとくなれば、さらに盡法界あるべからずと學することなかれ。芥納須彌等もまたかくのごとし。芥吐須彌および芥現法界、無盡藏海にてもあるなり。毛吐巨海、芥吐巨海するに、一念にも吐却す、萬劫にも吐却するなり。萬劫一念、おなじく毛芥より吐却せるがゆゑに。毛芥はさらになによりか得せる。すなはちこれ
通より得せるなり。この得、すなはち
通なるがゆゑに、ただまさに
通の
通を出生するのみなり。さらに三世の存沒あらずと學すべきなり。
佛はこの
通のみに遊戲するなり。
居士蘊公は、
席の偉人なり。江西石頭の兩席に參學せるのみにあらず、有道の宗師おほく相見し、相逢しきたる。あるときいはく、
通竝妙用、運水及搬柴。
この道理、よくよく參究すべし。いはゆる運水とは、水を運載しきたるなり。自作自爲あり、他作
他ありて、水を運載せしむ。これすなはち
通佛なり。しることは有時なりといへども、
通はこれ
通なり。人のしらざるには、その法の癈するにあらず、その法の滅するにあらず。人はしらざれども、法は法爾なり。運水の
通なりとしらざれども、
通の運水なるは不退なり。
搬柴とは、たきぎをはこぶなり。たとへば六
のむかしのごとし。朝打三千にも
通としらず、暮打八百にも
通とおぼへざれども、
通の現成なり。
まことに
佛如來の
通妙用を見聞するは、かならず得道すべし。このゆゑに一切
佛の得道、かならずこの
通力に成就せるなり。しかあれば、いま小乘の出水、たとひ小
通なりといふとも、運水の大
通なることを學すべし。運水搬柴はいまだすたれざるところ、人さしおかず。ゆゑにむかしよりいまにおよぶ、これよりかれにつたはれり。須臾も退轉せざるは
通妙用なり。これは大
通なり、小小とおなじかるべきにあらず。
洞山悟本大師、そのかみ雲巖に侍せりしとき、雲巖とふ、いかなるかこれ价子
通妙用。
ときに洞山叉手近前而立。
又雲巖とふ、いかならんか
通妙用。
洞山ときに珍重而出。
この因
、まことに
通の承言會宗なるあり。
通の事存凾蓋合なるあり。まさにしるべし、
通妙用は、まさに兒孫あるべし、不退なるものあり。まさに高
あるべし、不進なるものなり。いたづらに外道二乘にひとしかるべきとおもはざれ。
佛道に身上身下の
變
通あり。いま盡十方界は、沙門一隻の眞實體なり。九山八海、乃至性海、薩婆若海水、しかしながら身上身下身中の出水なり。又非身上非身下非身中の出水なり。乃至出火もまたかくのごとし。ただ水火風等のみにあらず、身上出佛なり、身下出佛なり。身上出
なり、身下出
なり。身上出無量阿
祇劫なり、身下出無量阿
祇劫なり。身上出法界海なり、身上入法界海なるのみにあらず、さらに世界國土を吐却七八箇し、呑却兩三箇せんことも、またかくのごとし。いま四大五大六大
大無量大、おなじく出なり沒なる
通なり。呑なり吐なる
通なり。いまの大地
空の面面なる、呑却なり、吐却なり。芥に轉ぜらるるを力量とせり、毛にかかれるを力量とせり。識知のおよばざるより同生して、識知のおよばざるを住持し、識知のおよばざるに實歸す。まことに短長にかかはれざる佛
通の變相、ひとへに測量を擧して擬するのみならんや。
むかし五通仙人、ほとけに事奉せしとき、仙人とふ、佛有六通、我有五通、如何是那一通(佛に六通あり、我れに五通あり、如何ならんか是れ那一通)。
ほとけ、ときに仙人を召していふ、五通仙人。
仙人應諾す。
佛言、那一通、爾問我。
この因
、よくよく參究すべし。仙人いかでか佛に有六通としる。佛有無量
通智慧なり、ただ六通のみにあらず。たとひ六通のみをみるといふとも、六通もきはむべきにあらず、いはんやその餘の
通におきて、いかでかゆめにもみん。
しばらくとふ、仙人たとひ釋
老子をみるといふとも、見佛すやいまだしや、といふべし。たとひ見佛すといふとも、釋
老子をみるやいまだしや。たとひ釋
老子をみることをえ、たとひ見佛すといふとも、五通仙人をみるやいまだしや、と問著すべきなり。この問處に用葛藤を學すべし、葛藤斷を學すべし。いはんや佛有六通、しばらく隣珍を算數するにおよばざるか。
いま釋
老子道の那一通、爾問我のこころ、いかん。仙人に那一通ありといはず、仙人になしといはず。那一通の通塞はたとひとくとも、仙人いかでか那一通を通ぜん。いかんとなれば、仙人に五通あれど、佛有六通のなかの五通にあらず。仙人通はたとひ佛通の所通に通破となるとも、仙通いかでか佛通を通ずることをえん。もし仙人、佛の一通をも通ずることあらば、この通より佛を通ずべきなり。仙人をみるに佛通に相似せるあり、佛儀をみるに仙通に相似せることあるは、佛儀なりといへども、佛
通にあらずとしるべきなり。通ぜざれば、五通みな佛とおなじからざるなり。
たちまちに那一通をとふ、なにの用かある、となり。釋
老子のこころは、一通をもとふべし、となり。那一通をとひ、那一通をとふべし、一通も仙人はおよぶところなし、となり。しかあれば、佛
通と餘者通とは、
通の名字おなじといへども、
通の名字はるかに殊異なり。ここをもて、
臨濟院慧照大師云、古人云、如來擧身相、爲順世間
。恐人生斷見、權且立
名。假言三十二、八十也空聲。有身非覺體、無相乃眞形(臨濟院慧照大師云く、古人云く、如來擧身の相は、世間の
に順ぜんが爲なり。人の斷見を生ぜんことを恐りて、權に且く
名を立つ。假に三十二と言ふ、八十も也た空しき聲なり。有身は覺體にあらず、無相は乃ち眞形なり)。
道、佛有六通、是不可思議。一切
天、
仙、阿修羅、大力鬼、亦有
通、應是佛否。道流莫錯、祗如阿修羅與天帝釋戰、戰敗領八萬四千眷屬、入藕孔中藏。莫是聖否。如山
所擧、皆是業通依通(
道ふべし、佛に六通あるは、是れ不可思議なり。一切
天、
仙、阿修羅、大力鬼も亦た
通あり、應に是れ佛なるべしや否や。道流、錯ること莫れ。ただ阿修羅と天帝釋と戰ふが如き、戰敗れて、八萬四千の眷屬を領じて、藕孔の中に入りて藏る。是れ聖なること莫しや否や。山
の擧する所の如きは、皆是れ業通なり、依通なり)。
夫如佛六通者不然。入色界不被色惑、入聲界不被聲惑、入香界不被香惑、入味界不被味惑、入觸界不被觸惑、入法界不被法惑。所以達六種色聲香味觸法、皆是空相、不能繋縛。此無依道人、雖是五蘊漏質、便是地行
道(夫れ、佛の六通の如きは然らず。色界に入つて色に惑はされず、聲界に入つて聲に惑はされず、香界に入つて香に惑はされず、味界に入つて味に惑はされず、觸界に入つて觸に惑はされず、法界に入つて法に惑はされず。所以に六種の色聲香味觸法皆是れ空相なるに達すれば、繋縛すること能はず。此れ無依の道人なり。是れ五蘊漏質なりと雖も、便ち是れ地行
道なり)。
道流、眞佛無形、眞法無相。
祗麼幻化上頭作模作樣、設求得者、皆是野狐
魅、竝不是眞佛、是外道見解(道流、眞佛は無形なり、眞法は無相なり。
祗麼に幻化上頭に模を作し樣を作す。設ひ求得すとも、皆な是れ野狐
魅なり。竝びに是れ眞佛にあらず、是れ外道の見解なり)。
しかあれば、
佛の六
通は、一切
天鬼
および二乘等のおよぶべきにあらず、はかるべきにあらざるなり。佛道の六通は、佛道の佛弟子のみ單傳せり、餘人の相傳せざるところなり。佛六通は佛道に單傳す、單傳せざるは佛六通をしるべからざるなり。佛六通を單傳せざらんは、佛道人なるべからずと參學すべし。
百丈大智禪師云、眼耳鼻舌、各各不貪染一切有無
法、是名受持四句偈、亦名四果。六入無迹、亦名六
通、祗如今但不被一切有無
法礙、亦不依住知解、是名
通。不守此
通、是名無
通。如云無
通菩薩、蹤跡不可得尋、是佛向上人、最不可思議人、是自己天(百丈大智禪師云く、眼耳鼻舌、各各一切有無の
法に貪染せず、是を受持四句偈と名づく、亦た四果と名づく。六入無迹なるを、亦た六
通と名づく。祗今但一切有無の
法に礙へられず、亦た知解に依住せざるが如き、是を
通と名づく。此の
通を守らざる、是を無
通と名づく。云ふが如き無
通菩薩は、蹤跡尋ぬること得べからず、是れ佛向上人なり、最不可思議人なり、是れ自己天なり)。
いま佛佛
相傳せる
通、かくのごとし。
佛
通は佛向上人なり、最不可思議人なり、是自己天なり、無
通菩薩なり。知解不依住なり、
通不守此なり、一切
法不被礙なり。いま佛道に六
通あり、
佛の傳持しきたれることひさし。一佛も傳持せざるなし、傳持せざれば
佛にあらず。その六
通は、六入を無迹にあきらむるなり。無迹といふは、古人のいはく、六般
用空不空、一顆圓光非内外。非内外は無迹なるべし。無迹に修行し、參學し、證入するに、六入を動著せざるなり。動著せずといふは、動著するもの三十棒分あるなり。
しかあればすなはち、六
通かくのごとく參究すべきなり。佛家の嫡嗣にあらざらん、たれかこのことわりあるべしともきかん。いたづらに向外の馳走を歸家の行履とあやまれるのみなり。又、四果は、佛道の調度なりといへども、正傳せる三藏なし。算沙のやから、
のたぐひ、いかでかこの果實をうることあらん。得小爲足の類、いまだ參究の達せるにあらず。ただまさに佛佛相承せるのみなり。いはゆる四果は、受持四句偈なり。受持四句偈といふは、一切有無
法におきて、眼耳鼻舌各各不貪染なるなり。不貪染は不染汚なり。不染汚といふは、平常心なり、吾常於此切なり。
六通四果を佛道に正傳せる、かくのごとし。これと相違あらんは佛法にあらざらんとしるべきなり。しかあれば、佛道はかならず
通より達するなり。その達する、涓滴の巨海を呑吐する、微塵の高嶽を拈放する、たれか疑著することをえん。これすなはち
通なるのみなり。
正法眼藏
通第三十五
爾時仁治二年辛丑十一月十六日在於觀音導利興聖寶林寺示衆
元甲辰中春初一日書寫之在於越州吉峰侍者寮 懷弉