第三十四 佛

佛の道現成、これ佛なり。これ佛の佛のためにするゆゑに、のために正傳するなり。これ轉法輪なり。この法輪の眼睛裏に、を現成せしめ、を般涅槃せしむ。その、かならず一塵の出現あり、一塵の涅槃あり。盡界の出現あり、盡界の涅槃あり。一須臾の出現あり、多劫海の出現あり。しかあれども、一塵一須臾の出現、さらに不具足の功なし。盡界多劫海の出現、さらに補虧闕の經營にあらず。このゆゑに朝に成道して夕に涅槃する佛、いまだ功かけたりといはず。もし一日は功すくなしといはば、人間の八十年ひさしきにあらず。人間の八十年をもて十劫二十劫に比せんとき、一日と八十年とのごとくならん。此佛彼佛の功、わきまへがたからん。長劫壽量の所有の功と、八十年の功とを擧して比量せんとき、疑著するにもおよばざらん。このゆゑに、佛はすなはち佛なり、佛究盡の功なり。佛は高廣にして、法は狹少なるにあらず。まさにしるべし、佛大なるは大なり、佛小なるは小なり。このゆゑにしるべし、佛およびは、大小の量にあらず、善惡無記等の性にあらず、自他のためにあらず。
ある漢いはく、釋老漢、かつて一代の典を宣するほかに、さらに上乘一心の法を摩訶葉に正傳す、嫡嫡相承しきたれり。しかあれば、は赴機の戲論なり、心は理性の眞實なり。この正傳せる一心を、外別傳といふ。三乘十二分の所談にひとしかるべきにあらず。一心上乘なるゆゑに、直指人心、見性成佛なりといふ。
この道取、いまだ佛法の家業にあらず。出身の活路なし、通身の威儀あらず。かくのごとくの漢、たとひ數百千年のさきに先達と稱ずとも、恁麼の話あらば、佛法佛道はあきらめず、通ぜざりけるとしるべし。ゆゑはいかん、佛をしらず、をしらず、心をしらず、内をしらず、外をしらざるがゆゑに。そのしらざる道理は、かつて佛法をきかざるによりてなり。いま佛といふ本末、いかなるとしらず。去來の邊際すべて學せざるは、佛弟子と稱ずるにたらず。ただ一心を正傳して、佛を正傳せずといふは、佛法をしらざるなり。佛の一心をしらず、一心の佛をきかず。一心のほかに佛ありといふ、なんぢが一心、いまだ一心ならず。佛のほかに一心ありといふ、なんぢが佛いまだ佛ならざらん。たとひ外別傳の謬を相傳すといふとも、なんぢいまだ内外をしらざれば、言理の符合あらざるなり。
佛正法眼藏を單傳する佛、いかでか佛を單傳せざらん。いはんや釋老漢、なにとしてか佛家の家業にあるべからざらん法を施設することあらん。釋老漢すでに單傳の法をあらしめん、いづれの佛かなからしめん。このゆゑに、上乘一心といふは、三乘十二分これなり、大藏小藏これなり。
しるべし、佛心といふは、佛の眼睛なり、破木杓なり、法なり、三界なるがゆゑに、山海國土、日月星辰なり。佛といふは、萬像森羅なり。外といふは、這裏なり、這裏來なり。正傳は、自己より自己に正傳するがゆゑに、正傳のなかに自己あるなり。一心より一心に正傳するなり、正傳に一心あるべし。上乘一心は、土石砂礫なり、土石砂礫は一心なるがゆゑに、土石砂礫は土石砂礫なり。もし上乘一心の正傳といはば、かくのごとくあるべし。
しかあれども、外別傳を道取する漢、いまだこの意旨をしらず。かるがゆゑに、外別傳の謬を信じて、佛をあやまることなかれ。もしなんぢがいふがごとくならば、をば心外別傳といふべきか。もし心外別傳といはば、一句半偈つたはるべからざるなり。もし心外別傳といはずは、外別傳といふべからざるなり。
摩訶葉すでに釋尊の嫡子として法藏の主たり。正法眼藏を正傳して佛道の住持なり。しかありとも、佛は正傳すべからずといふは、學道の偏局なるべし。しるべし、一句を正傳すれば、一法の正傳せらるるなり。一句を正傳すれば、山傳水傳あり。不能離却這裡(這裏を離却すること能はず)なり。
釋尊の正法眼藏無上菩提は、ただ摩訶葉に正傳せしなり。餘子に正傳せず、正傳はかならず摩訶葉なり。このゆゑに、古今に佛法の眞實を學する箇箇、ともにみな從來の學を決擇するには、かならず佛に參究するなり。決を餘輩にとぶらはず。もし佛の正決をえざるは、いまだ正決にあらず。依の正不を決せんとおもはんは、佛に決すべきなり。そのゆゑは、盡法輪の本主は佛なるがゆゑに。道有道無、道空道色(有と道ひ無と道ひ、空と道ひ色と道ふ)、ただ佛のみこれをあきらめ、正傳しきたりて、古佛今佛なり。
巴陵因問、意、是同是別(是れ同か是れ別か)。
師云、鷄寒上樹、鴨寒入水(鷄寒うして樹に上り、鴨寒うして水に入る)。
この道取を參學して、佛道の宗を相見し、佛道の法を見聞すべきなり。いま意と問取するは、意は意と是同是別と問取するなり。いま鷄寒上樹、鴨寒入水といふは、同別を道取すといへども、同別を見取するともがらの見聞に一任する同別にあらざるべし。しかあればすなはち、同別の論にあらざるがゆゑに、同別と道取しつべきなり。このゆゑに、同別と問取すべからずといふがごとし。

玄沙因問、三乘十二分不要、如何是師西來意(三乘十二分ち不要なり、如何ならんか是れ師西來意)。
師云、三乘十二分總不要(三乘十二分總に不要なり)。
いはゆる問の三乘十二分不要、如何是師西來意といふ、よのつねにおもふがごとく、三乘十二分は條條の岐路なり。そのほか師西來意あるべしと問するなり。三乘十二分これ師西來意なりと認ずるにあらず。いはんや八萬四千法門蘊すなはち師西來意としらんや。しばらく參究すべし、三乘十二分、なにとしてか不要なる。もし要せんときは、いかなる規矩かある。三乘十二分を不要なるところに、師西來意の參學を現成するか。いたづらにこの問の出現するにあらざらん。
玄沙いはく、三乘十二分總不要。
この道取は、法輪なり。この法輪の轉ずるところ、佛の佛に處在することを參究すべきなり。その宗旨は、三乘十二分は佛の法輪なり、有佛の時處にも轉ず、無佛の時處にも轉ず。後、おなじく轉ずるなり。さらに佛を轉ずる功あり。師西來意の正當恁麼時は、この法輪を總不要なり。總不要といふは、もちゐざるにあらず、やぶるるにあらず。この法輪、このとき、總不要輪の轉ずるのみなり。三乘十二分なしといはず、總不要の時節を見すべきなり。總不要なるがゆゑに三乘十二分なり。三乘十二分なるがゆゑに三乘十二分にあらず。このゆゑに、三乘十二分、總不要と道取するなり。その三乘十二分、そこばくあるなかの一隅をあぐるには、すなはちこれあり。

三乘
一者聲聞乘
四諦によりて得道す。四諦といふは、苦諦、集諦、滅諦、道諦なり。これをきき、これを修行するに、生老病死を度し、般涅槃を究竟す。この四諦を修行するに、苦集は俗なり、滅道は第一義なりといふは、論師の見解なり。もし佛法によりて修行するがごときは、四諦ともに唯佛與佛なり。四諦ともに法住法位なり。四諦ともに實相なり、四諦ともに佛性なり。このゆゑに、さらに無性無作等の論におよばず、四諦ともに總不要なるゆゑに。
二者覺乘
十二因によりて般涅槃す。十二因といふは、一者無明、二者行、三者識、四者名色、五者六入、六者觸、七者受、八者愛、九者取、十者有、十一者生、十二者老死。
この十二因を修行するに、過去現在未來に因せしめて、能觀所觀を論ずといへども、一一の因を擧して參究するに、すなはち總不要輪轉なり、總不要因なり。しるべし、無明これ一心なれば、行識等も一心なり。無明これ滅なれば、行識等も滅なり。無明これ涅槃なれば、行識等も涅槃なり。生も滅なるがゆゑに、恁麼いふなり。無明も道著の一句なり、識名色等もまたかくのごとし。しるべし、無明行等は、吾有箇斧子、與汝住山(吾れに箇の斧子有り、汝と與に住山せん)なり。無明行識等は、發時蒙和尚許斧子、便取(發時和尚に斧子を許すことを蒙れり、便ち取せん)なり。
三者菩薩乘
六波羅蜜の行證によりて、阿耨多羅三藐三菩提を成就す。その成就といふは、造作にあらず、無作にあらず、始起にあらず、新成にあらず、久成にあらず、本行にあらず、無爲にあらず。ただ成就阿耨多羅三藐三菩提なり。
六波羅蜜といふは、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禪那波羅蜜、般若波羅蜜なり。これはともに無上菩提なり。無生無作の論にあらず。かならずしも檀をはじめとし般若ををはりとせず。
經云、利根菩薩、般若爲初、檀爲終。鈍根菩薩、檀爲初、般若爲終(利根の菩薩は、般若を初めとし、檀を終りとす。鈍根の菩薩は、檀を初めとし、般若を終りとす)。
しかあれども、提もはじめなるべし、禪那もはじめなるべし。三十六波羅蜜の現成あるべし。籠より籠をうるなり。
波羅蜜といふは、彼岸到なり。彼岸は古來の相貌蹤跡にあらざれども、到は現成するなり、到は公案なり。修行の彼岸へいたるべしともおふことなかれ。彼岸に修行あるがゆゑに、修行すれば彼岸到なり。この修行、かならず界現成の力量を具足せるがゆゑに。

十二分
一者素咀纜 此云契經
二者祇夜 此云重頌
三者和伽羅那 此云授記
四者伽陀 此云諷誦
五者憂陀那 此云無問自
六者尼陀那 此云因
七者波陀那 此云譬喩
八者伊帝目多伽 此云本事
九者闍陀伽 此云本生
十者毘佛略 此云方廣
十一者阿浮陀達磨 此云未曾有
十二者優婆提舍 此云論議
如來則爲直陰界入等假實之法、是名修多羅。
或四五六七八九言偈、重頌世界陰入等事、是名祇夜。
或直記衆生未來事、乃至記鴿雀成佛等、是名和伽羅那。
或孤起偈、記世界陰入等事、是名伽陀。
或無人問、自世界事、是名優陀那。
或約世界不善事、而結禁戒、是名尼陀那。
或以譬喩世界事、是名阿波陀那。
本昔世界事、是名伊帝目多伽。
本昔受生事、是名闍陀伽。
世界廣大事、是名毘佛略。
世界未曾有事、是名阿浮達摩。
或問難世界事、是名優婆提舍。
此是世界悉檀、爲衆生故、起十二部經。
(如來ち爲に直に陰界入等の假實の法をきたまふ、是れを修多羅と名づく。
或いは四、五、六、七、八、九言の偈をもて、重ねて世界陰入等の事を頌す、是れを祇夜と名づく。
或いは直に衆生未來の事を記し、乃至鴿雀の成佛等を記す、是れを和伽羅那と名づく。
或いは孤起偈をもて、世界陰入等の事を記す、是れを伽陀と名づく。
或いは人問ふこと無く、自ら世界の事をく、是れを優陀那と名づく。
或いは世界不善の事に約して、禁戒を結す、是れを尼陀那と名づく。
或いは譬喩を以て、世界の事をく、是れを阿波陀那と名づく。
或いは本昔世界の事をく、是れを伊帝目多伽と名づく。
或いは本昔受生の事をく、是れを闍陀伽と名づく。
或いは世界廣大の事をく、是れを毘佛略と名づく。
或いは世界の未曾有の事をく、是れを阿浮陀達磨と名づく。
或いは世界の事を問難す、是れを優婆提舍と名づく。
此れは是れ世界悉檀なり、衆生をばしめんが爲の故に、十二部經を起す。)
十二部經の名、きくことまれなり。佛法のよのなかにひろまれるときこれをきく、佛法すでに滅するときはきかず。佛法いまだひろまらざるとき、またきかず。ひさしく善根をうゑて佛をみたてまつるべきもの、これをきく。すでにきくものは、ひさしからずして阿耨多羅三藐三菩提をうべきなり。
この十二、おのおの經と稱ず。十二分ともいひ、十二部經ともいふなり。十二分おのおの十二分を具足せるゆゑに、一百四十四分なり。十二分おのおの十二分を兼含せるゆゑに、ただ一分なり。しかあれども、億前億後の數量にあらず。これみな佛の眼睛なり、佛の骨髓なり、佛の家業なり、佛の光明なり、佛の莊嚴なり、佛の國土なり。十二分をみるは佛をみるなり、佛を道取するは十二分を道取するなり。
しかあればすなはち、原の垂一足、すなはち三乘十二分なり。南嶽の似一物不中、すなはち三乘十二分なり。いま玄沙の道取する總不要の意趣、それかくのごとし。この宗旨擧拈するときは、ただ佛のみなり。さらに半人なし、一物なし、一事未起なり。正當恁麼時、如何。いふべし總不要。

あるいは九部といふあり。九分といふべきなり。
九部
一者修多羅
二者伽陀
三者本事
四者本生
五者未曾有
六者因
七者譬喩
八者祇夜
九者優婆提舍
この九部、おのおの九部を具足するがゆゑに、八十一部なり。九部おのおの一部を具足するゆゑに九部なり。歸一部の功あらずは、九部なるべからず。歸一部の功あるがゆゑに、一部歸なり。このゆゑに八十一部なり。此部なり、我部なり、拂子部なり、杖部なり、正法眼藏部なり。
牟尼佛言、我此九部法、隨順衆生。入大乘爲本、以故是經(我が此の九部の法、衆生に隨順してく。大乘に入らんにこれ爲本なり、故を以て是經をく)。
しるべし、我此は如來なり、面目身心あらはれきたる。この我此すでに九部法なり、九部法すなはち我此なるべし。いまの一句一偈は九部法なり。我此なるがゆゑに隨順衆生なり。しかあればすなはち、一切衆生の生從這裏生、すなはち是經なり。死從這裏死は、すなはち是經なり。乃至造次動容、すなはち是經なり。化一切衆生、皆令入佛道、すなはち是經なり。この衆生は、我此九部法の隨順なり。この隨順は、隨他去なり、隨自去なり、隨衆去なり、隨生去なり、隨我去なり、隨此去なり。その衆生、かならず我此なるがゆゑに、九部法の條條なり。
入大乘爲本といふは、證大乘といひ、行大乘といひ、聞大乘といひ、大乘といふ。しかあれば、衆生は天然として得道せりといふにあらず、その一端なり。入は本なり、本は頭正尾正なり。ほとけ法をとく、法ほとけをとく。法ほとけにとかる、ほとけ法にとかる。火焔ほとけをとき、法をとく。ほとけ火焔をとき、法火焔をとく。
是經すでに故の良以あり、故の良以あり。是經とかざらんと擬するに不可なり。このゆゑに以故是經といふ。故は亙天なり、亙天は故なり。此佛彼佛ともに是經と一稱じ、自界他界ともに是經と故す。このゆゑに是經なり、是經これ佛なり。しるべし、恆沙の佛は竹箆拂子なり。佛の恆沙は杖拳頭なり。
おほよそしるべし、三乘十二分等は、佛の眼睛なり。これを開眼せざらんもの、いかでか佛の兒孫ならん。これを拈來せざらんもの、いかでか佛の正眼を單傳せん。正法眼藏を體達せざるは、七佛の法嗣にあらざるなり。

正法眼藏佛第三十四

于時仁治三年壬寅十一月七日在雍州興聖舍示衆