第三十三 道得

は道得なり。このゆゑに、佛の佛を選するには、かならず道得也未と問取するなり。この問取、こころにても問取す、身にても問取す。杖拂子にても問取す、露柱燈籠にても問取するなり。佛にあらざれば問取なし、道得なし、そのところなきがゆゑに。
その道得は、他人にしたがひてうるにあらず、わがちからの能にあらず、ただまさに佛の究辨あれば、佛の道得あるなり。かの道得のなかに、むかしも修行し證究す、いまも功夫し辨道す。佛の佛を功夫して、佛の道得を辨肯するとき、この道得、おのづから三年、八年、三十年、四十年の功夫となりて、盡力道得するなり。
[裡書云、三十年、二十年は、みな道得のなれる年月なり。この年月、ちからをあはせて道得せしむるなり。]
このときは、その何十年の間も、道得の間隙なかりけるなり。しかあればすなはち、證究のときの見得、それまことなるべし。かのときの見得をまこととするがゆゑに、いまの道得なることは不疑なり。ゆゑに、いまの道得、かのときの見得をそなへたるなり。かのときの見得、いまの道得をそなへたり。このゆゑにいま道得あり、いま見得あり。いまの道得とかのときの見得と、一條なり、萬里なり。いまの功夫すなはち道得と見得とに功夫せられゆくなり。
この功夫の把定の、月ふかく年おほくかさなりて、さらに從來の年月の功夫を落するなり。落せんとするとき、皮肉骨髓おなじく落を辨肯す、国土山河ともに落を辨肯するなり。このとき、落を究竟の寶所として、いたらんと擬しゆくところに、この擬到はすなはち現出にてあるゆゑに、正當落のとき、またざるに現成する道得あり。心のちからにあらず、身のちからにあらずといへども、おのづから道得あり。すでに道得せらるるに、めづらしくあやしくおぼえざるなり。
しかあれども、この道得を道得するとき、不道得を不道するなり。道得に道得すると認得せるも、いまだ不道得底を不道得底と證究せざるは、なほ佛の面目にあらず、佛の骨髓にあらず。しかあれば、三拜依位而立の道得底、いかにしてか皮肉骨髓のやからの道得底とひとしからん。皮肉骨髓のやからの道得底、さらに三拜依位而立の道得に接するにあらず、そなはれるにあらず。いまわれと他と、異類中行と相見するは、いまかれと他と、異類中行と相見するなり。われに道得底あり、不道得底あり。かれに道得底あり、不道得底あり。道底に自他あり、不道底に自他あり。

趙州眞際大師示衆云、若一生不離叢林、兀坐不道十年五載、無人喚作唖漢、已後佛也不及哉(趙州眞際大師、示衆に云く、若し一生叢林離なれば、兀坐不道ならんこと十年五載すとも、ひとのを唖漢と喚作すること無からん、已後には佛も也たに及ばじ)。
しかあれば、十年五載の在叢林、しばしば霜華を經歴するに、一生不離叢林の功夫辨道をおもふに、坐斷せし兀坐は、いくばくの道得なり。不離叢林の經行坐臥、そこばくの無人喚作唖漢なるべし。一生は所從來をしらずといへども、不離叢林ならしむれば不離叢林なり。一生と叢林の、いかなる通霄路かある。ただ兀坐を辨肯すべし。不道をいとふことなかれ。不道は道得の頭正尾正なり。
兀坐は一生、二生なり。一時、二時にあらず。兀坐して不道なる十年五載あれば、佛もなんぢをないがしろにせんことあるべからず。まことにこの兀坐不道は、佛眼也不見なり、佛力也牽不及なり。佛也不奈何なるがゆゑに。
趙州のいふところは、兀坐不道の道取は、佛もこれを唖漢といふにおよばず、不唖漢といふにおよばず。しかあれば、一生不離叢林は、一生不離道得なり。兀坐不道十年五載は、道得十年五載なり。一生不離不道得なり、道不得十年五載なり。坐斷百千佛なり、百千佛坐斷なり。
しかあればすなはち、佛の道得底は、一生不離叢林なり。たとひ唖漢なりとも、道得底あるべし、唖漢は道得なかるべしと學することなかれ。道得あるもの、かならずしも唖漢にあらざるにあらず。唖漢また道得あるなり。唖聲きこゆべし、唖語きくべし。唖にあらずは、いかでか唖と相見せん、いかでか唖と相談せん。すでにこれ唖漢なり、作麼生相見、作麼生相談。かくのごとく參學して、唖漢を辨究すべし。

雪峰の眞覺大師の會に一ありて、やまのほとりにゆきて、草をむすびて庵を卓す。としつもりぬれど、かみをそらざりけり。庵裡の活計たれかしらん、山中の消息悄然なり。みづから一柄の木杓をつくりて、溪のほとりにゆきて水をくみてのむ。まことにこれ飮溪のたぐひなるべし。
かくて日往月來するほどに、家風ひそかに漏泄せりけるによりて、あるとききたりて庵主にとふ、いかにあらんかこれ師西來意。
庵主云、谿深杓柄長(谿深くして杓柄長し)。
とふおくことあらず、禮拜せず、せず。やまにのぼりて雪峰に擧似す。
雪峰ちなみに擧をききていはく、也甚奇怪、雖然如是、老自去勘過始得(也甚奇怪、然も是の如くなりと雖も、老自ら去いて勘過して始得なるべし)。
雪峰のいふこころは、よさはすなはちあやしきまでによし、しかあれども、老みづからゆきてかんがへみるべしとなり。かくてあるに、ある日、雪峰たちまちに侍者に剃刀をもたせて卒しゆく。直に庵にいたりぬ。わづかに庵主をみるに、すなはちとふ、道得ならばなんぢが頭をそらじ。
この間、こころうべし。道得不剃汝頭とは、不剃頭は道得なりときこゆ。いかん。この道得もし道得ならんには、畢竟じて不剃ならん。この道得、きくちからありてきくべし。きくべきちからあるもののために開演すべし。
ときに庵主、かしらをあらひて雪峰のまへにきたれり。これも道得にてきたれるか、不道得にてきたれるか。雪峰すなはち庵主のかみをそる。
この一段の因、まことに優曇の一現のごとし。あひがたきのみにあらず、ききがたかるべし。七聖十聖の境界にあらず、三賢七賢の見にあらず。經師論師のやから、通變化のやから、いかにもはかるべからざるなり。佛出世にあふといふは、かくのごとくの因をきくをいふなり。
しばらく雪峰のいふ道得不剃汝頭、いかにあるべきぞ。未道得の人これをききて、ちからあらんは驚疑すべし、ちからあらざらんは茫然ならん。佛と問著せず、道といはず、三昧と問著せず、陀羅尼といはず、かくのごとく問著する、問に相似なりといへども、道に相似なり。審細に參學すべきなり。
しかあるに、庵主まことあるによりて、道得に助發せらるるに茫然ならざるなり。家風かくれず、洗頭してきたる。これ佛自智惠、不得其邊(佛自らの智慧、其の邊を得ず)の法度なり。現身なるべし、法なるべし、度生なるべし、洗頭來なるべし。ときに雪峰もしその人にあらずは、剃刀を放下して呵呵大咲せん。しかあれども、雪峰そのちからあり、その人なるによりて、すなはち庵主のかみをそる。まことにこれ雪峰と庵主と、唯佛與佛にあらずよりは、かくのごとくならじ。一佛二佛にあらずよりは、かくのごとくならじ。龍と龍とにあらずよりは、かくのごとくならじ。驪珠は驪龍のをしむこころ懈倦なしといへども、おのづから解收の人の手にいるなり。
しるべし、雪峰は庵主を勘過す、庵主は雪峰をみる。道得不道得、かみをそられ、かみをそる。しかあればすなはち、道得の良友は、期せざるにとぶらふみちあり。道不得のとも、またざれども知己のところありき。知己の參學あれば、道得の現成あるなり。

正法眼藏道得第三十三

仁治三年壬寅十月五日書于觀音導利興聖寶林寺 沙門
同三年壬寅十一月二日書寫之 懷弉