第三十一
惡莫作
古佛云、
惡莫作、衆善奉行、自淨其意、是
佛
(
惡を作すこと莫れ、衆善奉行すべし、自ら其の意を淨む、是れ
佛の
なり)。
これ七佛
宗の通戒として、前佛より後佛に正傳す、後佛は前佛に相嗣せり。ただ七佛のみにあらず、是
佛
なり。この道理を功夫參究すべし。いはゆる七佛の法道、かならず七佛の法道のごとし。相傳相嗣、なほ箇裡の通消息なり。すでに是
佛
なり、百千萬佛の
行證なり。
いまいふところの
惡者、善性惡性無記性のなかに惡性あり。その性これ無生なり。善性無記性等もまた無生なり、無漏なり、實相なりといふとも、この三性の箇裡に、許多般の法あり。
惡は、此界の惡と他界の惡と同不同あり、先時と後時と同不同あり、天上の惡と人間の惡と同不同なり。いはんや佛道と世間と、道惡道善道無記、はるかに殊異あり。善惡は時なり、時は善惡にあらず。善惡は法なり、法は善惡にあらず。法等惡等なり、法等善等なり。
しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提を學するに、聞
し、修行し、證果するに、深なり、遠なり、妙なり。この無上菩提を或從知識してきき、或從經卷してきく。はじめは、
惡莫作ときこゆるなり。
惡莫作ときこえざるは、佛正法にあらず、魔
なるべし。
しるべし、
惡莫作ときこゆる、これ佛正法なり。この
惡つくることなかれといふ、凡夫のはじめて造作してかくのごとくあらしむるにあらず。菩提の
となれるを聞
するに、しかのごとくきこゆるなり。しかのごとくきこゆるは、無上菩提のことばにてある道著なり。すでに菩提語なり、ゆゑに語菩提なり。無上菩提の
著となりて聞著せらるるに轉ぜられて、
惡莫作とねがひ、
惡莫作とおこなひもてゆく。
惡すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまち現成す。この現成は、盡地盡界、盡時盡法を量として現成するなり。その量は、莫作を量とせり。
正當恁麼時の正當恁麼人は、
惡つくりぬべきところに住し往來し、
惡つくりぬべき
に對し、
惡つくる友にまじはるににたりといへども、
惡さらにつくられざるなり。莫作の力量現成するゆゑに。
惡みづから
惡と道著せず、
惡にさだまれる調度なきなり。一拈一放の道理あり。正當恁麼時、すなはち惡の人ををかさざる道理しられ、人の惡をやぶらざる道理あきらめらる。
みづからが心を擧して修行せしむ、身を擧して修行せしむるに、機先の八九成あり、腦後の莫作あり。なんぢが心身を拈來して修行し、たれの身心を拈來して修行するに、四大五蘊にて修行するちから驀地に見成するに、四大五蘊の自己を染汚せず、今日の四大五蘊までも修行せられもてゆく。如今の修行なる四大五蘊のちから、上項の四大五蘊を修行ならしむるなり。山河大地、日月星辰までも修行せしむるに、山河大地、日月星辰、かへりてわれらを修行せしむるなり。一時の眼睛にあらず、
時の活眼なり。眼睛の活眼にてある
時なるがゆゑに、
佛
をして修行せしむ、聞
せしむ、證果せしむ。
佛
、かつて
行證をして染汚せしむることなきがゆゑに、
行證いまだ
佛
を
礙することなし。このゆゑに佛
をして修行せしむるに、過現當の機先機後に廻避する
佛
なし。衆生作佛作
の時節、ひごろ所有の佛
を
礙せずといへども、作佛
する道理を、十二時中の行住坐臥に、つらつら思量すべきなり。作佛
するに衆生をやぶらず、うばはず、うしなふにあらず。しかあれども
落しきたれるなり。
善惡因果をして修行せしむ。いはゆる因果を動ずるにあらず、造作するにあらず。因果、あるときはわれらをして修行せしむるなり。この因果の本來面目すでに分明なる、これ莫作なり。無生なり、無常なり、不昧なり、不落なり。
落なるがゆゑに。かくのごとく參究するに、
惡は一條にかつて莫作なりけると現成するなり。この現成に助發せられて、
惡莫作なりと見得徹し、坐得斷するなり。
正當恁麼のとき、初中後、
惡莫作にて現成するに、
惡は因
生にあらず、ただ莫作なるのみなり。
惡は因
滅にあらず、ただ莫作なるのみなり。
惡もし等なれば
法も等なり。
惡は因
生としりて、この因
のおのれと莫作なるをみざるは、あはれむべきともがらなり。佛種從
起なれば
從佛種起なり。
惡なきにあらず、莫作なるのみなり。
惡あるにあらず、莫作なるのみなり。
惡は空にあらず、莫作なり。
惡は色にあらず、莫作なり。
惡は莫作にあらず、莫作なるのみなり。たとへば、春松は無にあらず有にあらず、つくらざるなり。秋菊は有にあらず無にあらず、つくらざるなり。
佛は有にあらず無にあらず、莫作なり。露柱燈籠、拂子
杖等、有にあらず、無にあらず、莫作なり。自己は有にあらず無にあらず、莫作なり。恁麼の參學は、見成せる公案なり、公案の見成なり。主より功夫し、賓より功夫す。すでに恁麼なるに、つくられざりけるをつくりけるとくやしむも、のがれず、さらにこれ莫作の功夫力なり。
しかあれば、莫作にあらばつくらまじと趣向するは、あゆみをきたにして越にいたらんとまたんがごとし。
惡莫作は、井の驢をみるのみにあらず、井の井をみるなり。驢の驢をみるなり、人の人をみるなり、山の山をみるなり。
箇の應底道理あるゆゑに、
惡莫作なり。佛眞法身、猶若
空、應物現形、如水中月(佛の眞法身は、猶し
空のごとし、物に應じて形を現はすこと、水中の月の如し)なり。應物の莫作なるゆゑに、現形の莫作あり、猶若
空、左拍右拍なり。如水中月、被水月礙(水月に礙へらる)なり。これらの莫作、さらにうたがふべからざる現成なり。
衆善奉行。この衆善は、三性のなかの善性なり。善性のなかに衆善ありといへども、さきより現成して行人をまつ衆善いまだあらず。作善の正當恁麼時、きたらざる衆善なし。萬善は無象なりといへども、作善のところに計會すること、磁鐵よりも速疾なり。そのちから、毘嵐風よりもつよきなり。大地山河、世界國土、業
上力、なほ善の計會を
礙することあたはざるなり。
しかあるに、世界によりて善を認ずることおなじからざる道理、おなじ認得を善とせるがゆゑに、如三世
佛、
法之儀式(三世
佛の
法の儀式の如し)。おなじといふは、在世
法ただ、時なり。壽命身量またときに一任しきたれるがゆゑに、
無分別法なり。
しかあればすなはち、信行の機の善と、法行の機の善と、はるかにことなり。別法にあらざるがごとし。たとへば、聲聞の持戒は菩薩の破戒なるがごとし。
衆善これ因
生、因
滅にあらず。衆善は
法なりといふとも、
法は衆善にあらず。因
と生滅と衆善と、おなじく頭正あれば尾正なり。衆善は奉行なりといへども、自にあらず、自にしられず。他にあらず、他にしられず。自他の知見は、知に自あり、他あり、見の自あり、他あるがゆゑに、各各の活眼睛、それ日にもあり、月にもあり。これ奉行なり。奉行の正當恁麼時に、現成の公案ありとも、公案の始成にあらず、公案の久住にあらず、さらにこれを奉行といはんや。
作善の奉行なるといへども、測度すべきにはあらざるなり。いまの奉行、これ活眼睛なりといへども、測度にはあらず。法を測度せんために現成せるにあらず。活眼睛の測度は、餘法の測度とおなじかるべからず。
衆善、有無、色空等にあらず、ただ奉行なるのみなり。いづれのところの現成、いづれの時の現成も、かならず奉行なり。この奉行にかならず衆善の現成あり。奉行の現成、これ公案なりといふとも、生滅にあらず、因
にあらず。奉行の入住出等も又かくのごとし。衆善のなかの一善すでに奉行するところに、盡法全身、眞實地等、ともに奉行せらるるなり。
この善の因果、おなじく奉行の現成公案なり。因はさき、果はのちなるにあらざれども、因圓滿し、果圓滿す。因等法等、果等法等なり。因にまたれて果感ずといへども、前後にあらず、前後等の道あるがゆゑに。
自淨其意といふは、莫作の自なり、莫作の淨なり。自の其なり、自の意なり。莫作の其なり、莫作の意なり。奉行の意なり、奉行の淨なり、奉行の其なり、奉行の自なり。かるがゆゑに是
佛
といふなり。
いはゆる
佛、あるいは自在天のごとし。自在天に同不同なりといへども、一切の自在天は
佛にあらず。あるいは轉輪王のごとくなり。しかあれども、一切の轉輪聖王の
佛なるにあらず。かくのごとくの道理、功夫參學すべし。
佛はいかなるべしとも學せず、いたづらに苦辛するに相似せりといへども、さらに受苦の衆生にして、行佛道にあらざるなり。莫作および奉行は、驢事未去、馬事到來なり。
唐の白居易は、佛光如滿禪師の俗弟子なり。江西大寂禪師の孫子なり。杭州の刺史にてありしとき、鳥
の道林禪師に參じき。ちなみに居易とふ、如何是佛法大意。
道林いはく、
惡莫作、衆善奉行。
居易いはく、もし恁麼にてあらんは、三歳の孩兒も道得ならん。
道林いはく、三歳孩兒縱道得、八十老翁行不得なり。
恁麼いふに、居易すなはち拜謝してさる。
まことに居易は、白將軍がのちなりといへども、奇代の詩仙なり。人つたふらくは、二十四生の文學なり。あるいは文殊の號あり、あるいは彌勒の號あり。風
のきこえざるなし、筆海の朝せざるなかるべし。しかあれども、佛道には初心なり、晩進なり。いはんやこの
惡莫作、衆善奉行は、その宗旨、ゆめにもいまだみざるがごとし。
居易おもはくは、道林ひとへに有心の趣向を認じて、
惡をつくることなかれ、衆善奉行すべしといふならんとおもひて、佛道に千古萬古の
惡莫作、衆善奉行の亙古亙今なる道理、しらずきかずして、佛法のところをふまず、佛法のちからなきがゆゑにしかのごとくいふなり。たとひ造作の
惡をいましめ、たとひ造作の衆善をすすむとも、現成の莫作なるべし。
おほよそ佛法は、知識のほとりにしてはじめてきくと、究竟の果上もひとしきなり。これを頭正尾正といふ。妙因妙果といひ、佛因佛果といふ。佛道の因果は、異熟等流等の論にあらざれば、佛因にあらずは佛果を感得すべからず。道林この道理を道取するゆゑに佛法あるなり。
惡たとひいくかさなりの盡界に彌綸し、いくかさなりの盡法を呑却せりとも、これ莫作の解
なり。衆善すでに初中後善にてあれば、奉行の性相體力等を如是せるなり。居易かつてこの蹤跡をふまざるによりて、三歳の孩兒も道得ならんとはいふなり。道得をまさしく道得するちからなくて、かくのごとくいふなり。
あはれむべし、居易、なんぢ道甚麼なるぞ。佛風いまだきかざるがゆゑに。三歳の孩兒をしれりやいなや。孩兒の才生せる道理をしれりやいなや。もし三歳の孩兒をしらんものは、三世
佛をもしるべし。いまだ三世
佛をしらざらんもの、いかでか三歳の孩兒をしらん。對面せるはしれりとおもふことなかれ、對面せざればしらざるとおもふことなかれ。一塵をしれるものは盡界をしり、一法を通ずるものは萬法を通ず。萬法に通ぜざるもの、一法に通ぜず。通を學せるもの通徹のとき、萬法をもみる、一法をもみるがゆゑに、一塵を學するもの、のがれず盡界を學するなり。三歳の孩兒は佛法をいふべからずとおもひ、三歳の孩兒のいはんことは容易ならんとおもふは至愚なり。そのゆゑは、生をあきらめ死をあきらむるは佛家一大事の因
なり。
古
いはく、なんぢがはじめて生下せりしとき、すなはち獅子吼の分あり。獅子吼の分とは、如來轉法輪の功
なり、轉法輪なり。
又古
いはく、生死去來、眞實人體なり。
しかあれば、眞實體をあきらめ、獅子吼の功
あらん、まことに一大事なるべし、たやすかるべからず。かるがゆゑに、三歳孩兒の因
行履あきらめんとするに、さらに大因
なり。それ三世の
佛の行履因
と、同不同あるがゆゑに。
居易おろかにして三歳の孩兒の道得をかつてきかざれば、あるらんとだにも疑著せずして、恁麼道取するなり。道林の道聲の雷よりも顯赫なるをきかず、道不得をいはんとしては、三歳孩兒還道得といふ。これ孩兒の獅子吼をもきかず、禪師の轉法輪をも蹉過するなり。
禪師あはれみをやむるにあたはず、かさねていふしなり、三歳の孩兒はたとひ道得なりとも、八十の老翁は行不得ならんと。
いふこころは三歳の孩兒に道得のことばあり、これをよくよく參究すべし。八十の老翁に行不得の道あり、よくよく功夫すべし。孩兒の道得はなんぢに一任す、しかあれども孩兒に一任せず。老翁の行不得はなんぢに一任す、しかあれども老翁に一任せずといひしなり。佛法はかくのごとく辨取し、
取し、宗取するを道理とせり。
正法眼藏
惡莫作第卅一
爾時延應庚子月夕在雍州宇治縣觀音導利興聖寶林寺示衆
元元年癸卯三月下旬七日於侍司寮書寫之 懷弉