第二十三 都機
月の圓成すること、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず。圓成の月なる、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず。このゆゑに、
釋牟尼佛言く、佛眞法身、猶若空。應物現形、如水中月(佛の眞法身は、猶し空の若し。物に應じて形を現はす、水中の月の如し)。
いはゆる如水中月の如如は水月なるべし。水如、月如、如中、中如なるべし。相似を如と道取するにあらず、如は是なり。佛眞法身は空の猶若なり。この空は、猶若の佛眞法身なり。佛眞法身なるがゆゑに、盡地盡界、盡法盡現、みづから空なり。現成せる百草萬像の猶若なる、しかしながら佛眞法身なり、如水如月なり。月のときはかならず夜にあらず、夜かならずしも暗にあらず。ひとへに人間の小量にかかはることなかれ。日月なきところにも晝夜あるべし、日月は晝夜のためにあらず。日月ともに如如なるがゆゑに、一月兩月にあらず、千月萬月にあらず。月の自己、たとひ一月兩月の見解を保任すといふとも、これは月の見解なり、かならずしも佛道の道取にあらず、佛道の知見にあらず。しかあれば、昨夜たとひ月ありといふとも、今夜の月は昨月にあらず、今夜の月は初中後ともに今夜の月なりと參究すべし。月は月に相嗣するがゆゑに、月ありといへども新舊にあらず。
盤山寶積禪師云、心月孤圓、光呑萬象。光非照境、境亦非存。光境倶亡、復是何物(心月孤圓、光、萬象を呑めり。光、境を照らすに非ず、境亦た存ずるに非ず。光境倶に亡ず、復た是れ何物ぞ)。
いまいふところは、佛佛子、かならず心月あり。月を心とせるがゆゑに。月にあらざれば心にあらず、心にあらざる月なし。孤圓といふは、虧闕せざるなり。兩三にあらざるを萬象といふ。萬象これ月光にして萬象にあらず。このゆゑに光呑萬象なり。萬象おのづから月光を呑盡せるがゆゑに、光の光を呑却するを、光呑萬象といふなり。たとへば、月呑月なるべし、光呑月なるべし。ここをもて、光非照境、境亦非存と道取するなり。得恁麼なるゆゑに、應以佛身得度者のとき、現佛身而爲法なり。應以普現色身得度者のとき、現普現色身而爲法なり。これ月中の轉法輪にあらずといふことなし。たとひ陰陽の光象するところ、火珠水珠の所成なりとも、現現成なり。この心すなはち月なり、この月おのづから心なり。佛佛子の心を究理究事すること、かくのごとし。
古佛いはく、一心一切法、一切法一心。
しかあれば、心は一切法なり、一切法は心なり。心は月なるがゆゑに、月は月なるべし。心なる一切法、これことごとく月なるがゆゑに、遍界は遍月なり。通身ことごとく通月なり。たとひ直須萬年の前後三三、いづれか月にあらざらん。いまの身心依正なる日面佛月面佛、おなじく月中なるべし。生死去來ともに月にあり。盡十方界は月中の上下左右なるべし。いまの日用、すなはち月中の明明百草頭なり、月中の明明師心なり。
舒州投子山慈濟大師、因問、月未圓時如何(月未圓なる時、如何)。
師云、呑却三箇四箇(三箇四箇を呑却す)。
云、圓後如何(圓なる後、如何)。
師云、吐却七箇八箇(七箇八箇を吐却す)。
いま參究するところは、未圓なり、圓後なり、ともにそれ月の造次なり。月に三箇四箇あるなかに、未圓の一枚あり。月に七箇八箇あるなかに、圓後の一枚あり。呑却は三箇四箇なり。このとき、月未圓時の見成なり。吐却は七箇八箇なり。このとき、圓後の見成なり。月の月を呑却するに、三箇四箇なり。呑却に月ありて現成す、月は呑却の見成なり。月の月を吐却するに、七箇八箇あり。吐却に月ありて現成す。月は吐却の現成なり。このゆゑに、呑却盡なり、吐却盡なり。盡地盡天吐却なり、蓋天蓋地呑却なり。呑自呑他すべし、吐自吐他すべし。
釋牟尼佛告金剛藏菩薩言、譬如動目能搖湛水、又如定眼猶廻轉火。雲駛月運、舟行岸移、亦復如是(釋牟尼佛、金剛藏菩薩に告げて言はく、譬へば動目の能く湛水を搖がすが如く、又、定眼のなほ火を廻轉せしむるが如し。雲駛れば月運り、舟行けば岸移る、亦復是の如し)。
いま佛演の雲駛月運、舟行岸移、あきらめ參究すべし。倉卒に學すべからず、凡に順ずべからず。しかあるに、この佛を佛のごとく見聞するものまれなり。もしよく佛のごとく學するといふは、圓覺かならずしも身心にあらず、菩提涅槃にあらず、菩提涅槃かならずしも圓覺にあらず、身心にあらざるなり。
いま如來道の雲駛月運、舟行岸移は、雲駛のとき、月運なり。舟行のとき、岸移なり。
いふ宗旨は、雲と月と、同時同道して同歩同運すること、始終にあらず、前後にあらず。舟と岸と、同時同道して同歩同運すること、起止にあらず、流轉にあらず。たとひ人の行を學すとも、人の行は起止にあらず、起止の行は人にあらざるなり。起止を擧揚して人の行に比量することなかれ。雲の駛も月の運も、舟の行も岸の移も、みなかくのごとし。おろかに小量の見に局量することなかれ。雲の駛は東西南北をとはず、月の運は晝夜古今に休息なき宗旨、わすれざるべし。舟の行および岸の移、ともに三世にかかはれず、よく三世を使用するものなり。このゆゑに、直至如今不飢(直に如今に至るまでいて飢ゑず)なり。
しかあるを、愚人おもはくは、雲のはしるによりて、うごかざる月をうごくとみる、舟のゆくによりて、うつらざる岸をうつるとみゆると見解せり。もし愚人のいふがごとくならんは、いかでか如來の道ならん。佛法の宗旨、いまだ人天の小量にあらず。ただ不可量なりといへども、隨機の修行あるのみなり。たれか舟岸を再三撈せざらん、たれか雲月を急著眼看せざらん。
しるべし、如來道は、雲を什麼法に譬せず、月を什麼法に譬せず、舟を什麼法に譬せず、岸を什麼法に譬せざる道理、しづかに功夫參究すべきなり。月の一歩は如來の圓覺なり、如來の圓覺は月の運爲なり。動止にあらず、進退にあらず。すでに月運は譬喩にあらざれば、孤圓の性相なり。
しるべし、月の運度はたとひ駛なりとも、初中後にあらざるなり。このゆゑに第一月、第二月あるなり。第一、第二、おなじくこれ月なり。正好修行これ月なり、正好供養これ月なり、拂袖便行これ月なり。圓尖は去來の輪轉にあらざるなり。去來輪轉を使用し、使用せず、放行し、把定し、逞風流するがゆゑに、かくのごとくの月なるなり。
正法眼藏都機第二十三
仁治癸卯端月六日書于觀音導利興聖寶林寺 沙門
元癸卯解制前日書寫之 懷弉